2010年10月30日

"女の時代"を表現した結果

「蒼の時代」という本があります。


"女の時代"と言われていた1970年代の終わりを、大衆レベルで体現していたのが、山口百恵でした。


アイドルなのに泣かない、アイドルなのに気が強、い、感情を表に出さない、したたかとか、しなやかという言葉で形容された存在であったのが彼女です。


つまり日本の女性で初めて大衆レベルでの「女の時代」を具現化した存在があのころの山口百恵だったのです。


私はそのころ、自分が貧しさの中で、あるいは無名の記者時代に排斥される側にいたりで、言わば光と影の両方味わってきているような中で、


「スターといえども人間じゃないか、人間はみんな同じじゃないか」


ということを何かの機会に表現したいなと考えていました。


これが「蒼の時代」のプロデューサーとしての表現のコンセプトでした。


何かで「人間はみな同じ」ということを表現したいなと思っているときに、山口百恵に出会ったわけです。


きれいなフットライトやスポットライトを浴びて、歌を歌って、華麗な洋服を着ている彼女・・・


そんな彼女にだって、私たちと同じように血が通った涙を体験した人生があるはずだみたいなことをわかりやすく言うにはどうしたらいいかと考えました。


そんなときに、スペースコレクション的アイドル歌手が一般に書くような、空の雲が飛んでいたとか、五月の風が気持ちいいとかというエッセイではなくて、ものごとを普遍化させて、山口百恵というスーパースター、アイドルの個人的な人生模様ではないということ。


それはどこの家にもあるかもしれないということを踏まえてと提案したわけです。


「てにをは」から、熟語からすべてを考えました。



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2010年10月27日

大きなスペースコレクション的システムの中で

極論すれば、電通、博報堂等の従来ソフト供給会社、というよりは供給商社と言ってもいいような仕組みに頼っていたクリエイティビティ性が高い会社・・・


広告代理店のように、日本型のスペースコレクション的エージェンシーが、やや媒体プロブローカー的に、新聞のスペース買いや電波のスペース買いの商社になったときに、インディペンデントプロデューサーのような業種が初めて登場したとも言えるわけです。


そういうような従来持っていたソフト供給会社の弱体化と、私たちのような団塊の世代の周辺の人が大企業に組み敷かれることをいさぎよしとしないということが相まって・・・


「石をぶつければプロデューサー」という感じのオーナー会社の代表取締役というのが、大体昭和22〜23年から24〜25年生まれの団塊の世代に多いのです。


ちょうど団塊の世代の人たちというのは、大きなシステムの中でなかなか頑張りがきかなくて、落ちこぼれた人数と救い上げられた人数が全一同数であるように思われます。


一流会社に行った人の悲哀と落ちこぼれた人の気楽さが同じ土俵で語られるという、日本の中の合の動態で言うと、珍しい分布の中にいると思うんです。


「社長の苦悩」と、「こじきの幸せ」の両方知っているので、どっちがいいとも言えない、というのが団塊の世代の周辺で、その辺と現代の消費動向がまさに今つながっているんじゃないかなという気がするんです。


小さいスペースコレクション的世帯ながら、自分の会社で何かをつくりたいという物づくりの周辺の変化と、プロデュース業みたいなものがはびこっているということはつながっているんですね。




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2010年10月24日

システムの谷間に咲く

プロデュースないしはプロデューサーの役職についている人が、自分の課や自分の部を管理していったり、プロデュースをしていくときも同じです。


プロデュースの側にコンセプト、目標、表現したいものがあるかどうか、この課の人をどうしたいかとか、きょうのこの事態をどうしたいかというものが長たるプロデューサーにないとこれは全部だめなんです。


それは独断と偏見で言ってもいいわけですけれども、少なくとも、合議制にしている中には、プロデュースという目はないです。


日本ではずっとプランニングとか、プロデュースとか、アイデアとか、目に見えないところにはなかなかお金が支払われてきませんでした。


例えば"びん"をつくるにしても、ガラスの原料代にはお金が払われるのですが、いろんな思考錯誤の果てに、そのびんに至った「過程」にはお金は払われていない。


しかし、これだけいろんな物財が飽和状態の域に達するほどの世の中になれば、「この形なんだ」と決めるまでの過程にお金が払われていかなければ、だめだと思うのです。


私たちのような業種が・・・


言ってみれば昊な管理体制のもとにつくられていた今までのソフトウエアの供給のシステムの谷間に咲く形で、スペースコレクション的プロデューサーのオーナー会社として延びてきているのは、そんな兆しと関係のあることだと思います。


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2010年10月21日

ディレクターとスペースコレクション的プロデューサー

私は、今大衆の視線がどの辺にあって、これから先、どのような岸辺に大衆の目や耳が流れていって、どの辺を漂うかを、まさに自分の視線と同一線上にみんなの視線を意識しながら仕事をしています。


そしてそれが最終的にはマス・・・大衆に到達すれば成功と言われるのです。


最終的には数字で裏づけがないと、人はだれも認知してくれないというのが世の中の仕組みです。


プロデューサーとは、「時代の趨勢」と「人の流れ」と、それにバジェットとか、期限とかという「数字の制限」を見据えられて、それを「夢」で味つけする役の人間といった方がいいかもしれません。


今後はおそらく一見関係がないと思われるような業種でも、時と人と、数、それに夢というスパイスという組みあわせは多分いろんなところで当たり前のように通用することになるのではないかと思います。


日本にはディレクターの資質を持った、職人芸的な人は大勢います。


しかし、全体を階畷した位置から見通せるプロデュース能力というのが欠如していたと言われていたわけです。


これからソフトウェア全盛の時代にあってまさに必要なのはプロデューサーで、企業の中で言えばチーフプロデューサーは社長であったり、役員の方だったりするのと同様、国のプロデューサーは総理かもしれません。


また、その課のスペースコレクション的プロデューサーは課長かもしれないというように、それぞれがそれぞれの場で、やや傭鰍した位置で全体の中の自分の足もとを見られるかどうかというのが、これからいろんなものをつくっていく上で大事になってくると思います。



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2010年10月18日

プロデューサーの新しい動き

最近のソフトウエアの周辺での大きな変革ですが、大企業に所属しないで自分の独立したシステムを持って、オーナーイコールプロデューサーという会社が増えています。


現在私は、周囲にいるオーナープロデューサーたちを日本流の言い方で言うと"座組み"して、流行の言い方で言えば"ネットワークデザイニング"をして仕事を進めるケースが多くなっています。


例えば一つのプロジェクトがあったとしますと、その目的に適合するように、プランナー、デザイナー、設計家、インテリアコーディネーター、……と、さまざまな分野の人たちにも入ってもらった方がいいということになる。


最近、スペースコレクションでは、レストランやショップをつくるプロデューサーという職業がさかんです。


友人の一人にもいますが、彼にも現在、レストランだけに限らず、ホテルのソフト開発の仕事が依頼されているということです。


設計の専門家でも工学博士でもなくて、ソフトウエアの、つまり人の耳や目をこちら側に集めるための装置を考えるという意味のソフトウェアです。


その専門家であって、こういう地盤ならこういう店をつくればいい、こういう店ならビールはどんなもの、といった細かいところまでを選択するわけです。


彼の頭の中には、イタリア、フラン奪海外で修行中の日本人シェフの一覧表が入っています。


料理の技術はあるが、資本がないという、世界各国で修行しているシェフと、経営はしたくないんだけれども、有能なシェフを探して店をやらせて、自分はお金だけ出してもうけたいという人・・・


つまり才能と資本をつなげることもしています。


これもまたネットワークデザインにあたるわけです。



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2010年10月15日

日本のホテル

日本ではホテルの収益率でいうと、宿泊は3割程度なんです。


7割が付帯設備から得られる利益というときに、4人でどこかのお茶の会に来たおばさんたちばかりを泊めてしまって、部屋だけふさがっていればいいという考え方にしてしまうと、どんどんそれなりの客しか来なくなります。


ホテルというのは、最初のイメー3〆から格上げするのはほとんど不可能なんですが、下落していくのは簡単なんです。


アメリカでは、ホテルが開業しての最初のイベントに国際コンベンションを持ってくるというのが絶対的な要件です。


日本でも一流ホテルは外国人の占有率をはっきり決めています。


定員が埋まっていなくても、日本人では埋めない。


ここでいう外国人とは白人のことですが、そうしたことが全部マニュアルで決まっているわけです。


どういう客が来ると全体として収益につながるかというのは、部屋だけ85%で稼働していて、ホッとできるというものではありません。


そこに集まる客が、もっと言えばインテリアも含めて、客がインテリアで、客自体がソフトウエアなんじゃないかと思います。


女だらけのところは本当に今だめです。


女をつかみたかったら、その隣にいる男を刺激するような形で女を捕まえないと無理なんじゃないかなという気がするんです。


いい女を集めておけば、男が寄ってきて、そのマーケットがうまく行く、とよく言われますが、それは両方から言えることです。


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2010年10月12日

すばらしい建築とスペースコレクション開発

今すてきと言われる女の人は、仕事もできるし、社会的なこともできる、そしてさらに男性とうまくやっていくというのも重要な要件になっています。


三角メガネをかけて髪の毛を逆立ててキリキリ仕事ができる女というのは、男から見ても、女から見ても嫌なわけです。


男性とも、あるいは男性社会ともうまくやっていきながら、女性の特質をちゃんと前面に押し出します。


それでいてエクスキューズを使って甘えるのではない、仕事もちゃんとやっていくというような女の人が、女性から見ても、男性から見ても強い味方だし、素敵なあこがれの存在なんですね。


だから、女だけがより集まっている空間は、やはりすてきな女は行きたくない。


すてきな男がいるから、そこにすてきな女が集まる、すてきな女がいるからすてきな男が集まるわけです。


だから、ブライトンホテルに関しても、女向けに、女向けにと言って、女だけ集めて、4人部屋に女が集まったことを想像してみてくださいとホテル・プロジェクトの方に申し上げたんです。


4人でスイートルームを使う女は、申しわけないけれども、それなりの女性です。


・・・部屋の中を荒らし回るかもしれないし、もしかしたら歯ブラシとか、歯磨きも持って帰っちゃうかもしれない。


メンテナンスにかかる費用のことなどを考えると、すてきな男女が泊まってくれる方が汚さないし、レストランやルームサービスなど、スペースコレクションの付帯設備を利用する率も高いのではないかと思うのです。


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2010年10月09日

心地よいスペースコレクション空間とは

心地よいホテルの空間をつくるには、スペースコレクション建築を担当した大人の男たち当人が入って落ち着く空間をつくればいいわけです。


しかし、ご本人たちによくよく聞いてみますとあまり落ち着かないと言うんですね。


女っぽすぎて。


・・・それならば、その空間には30歳代の女性が入っても落ち着かないものである、と私は考えるわけです。


やはり従来の価値観や概念規定の中の「女らしさ」とか、


「多分女はこんなものが好きだろう」


・・・というのでつくると、失敗するわけです。


ホテルというのは日常の中で味わえるものじゃない異空間をお金を出して買うものです。


言ってみれば、丸井のクレジトでも取り寄せられる家具が置いてあるホテルにはわざわざ行かないですよね。


当然のことながら、観光のみを目的として、ホテルを一宿一飯で利用するのではなくて、ホテルそれ白体が目的になっているというように、装置と周りにあるものの関係も変わってきているんだと思うんですね。


銀閣寺に行きたいんじゃなくて、銀閣寺はついでに見るみたいになってきているのです。


どっちが主で、どっちが従か、どっちが主役で、どっちがバイプレーヤーかみたいなものの関係が変化してきているような状態でもあると思うんですね。


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2010年10月06日

空間を買うホテル

昭和63年7月に、長谷川工務店が京都に直営のホテル「京都ブライトンホテル」をオープンさせました。


最初のコンセプトづくりはスペースコレクション開発の自社で行ったわけですが、ホテルの特長的な性格付けとして、全室をスイートタイプにしているのです。


スイートと言ってもジュニアスイートタイブのものもあるのですが、それにしても一部屋当たりの占有而積からすればかなり割安なホテルになるはずです。


こうしたホテルに限らず、現在ではどんな商品も女の人に使って欲しいというのが企業の本音としてはあるようです。


30歳代の女性・・・つまり、大人の女性がターゲットになっているホテル。


自分たちで考えたんだけれども、どうもはっきりつかめないので見てくれという話があって、最初は顧客側の意識で見に行ったのです。


行ってみますと、従来の価値観の中での女性観が生み出した空間、簡単に言うと、部屋の基調はピンク、カーテンも壁紙もパステル調、さらにきらびやかな鏡が置いてあって、部屋の中がピカピカしていました。


・・・これが30歳代の女性の好み、と考えて、こうしたホテルをつくったのでしょうが、今の女たちが、女であるというだけで、ピンクや鏡というわけには短絡できないのが現状です。


20歳代の女性がそこの空間をとても心地よいと思うということは、実は30歳代の女性が一番関心を持ったり、興味の対象である大人の男たち・・・


いちがいに年齢では言えませんが、30歳代から、40、50歳代の男性も、心地よいと思う空間をつくらなければいけないわけです。


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2010年10月03日

空間が人を排除するスパイラル

スペースコレクションの青山通りにワコールがつくった建物にアートセンター・スパイラルというのがあります。


ワコールがつくったビルです。


これは下着は1枚もつけられていない、言わばアートの殿堂で、ニューヨークの若いアーティストたちの作品展をやったり、新しいパフォーマンスをやったりしています。


私の先生は、このビルのオープニングのときのプロデューサーの一人でしたが、ここをつくるときに、中にレストラン機能を二つぐらい欲しいというのが施主の側の気持ちとしてあったわけです。


結局ワコールと京都という関係で「万葉軒」が入り、地下に流行の先駆けになったエスニックのタイ料理店が入りました。


こうした具体的な結果も大切ですが、施主側には本当にそこで表現したいもの、"本音"が必ず隠されているわけです。


ワコールのスパイラルの場合でいうと、ビルに近くの表参道が修学旅行の学生たちの自由時間コースになっているのですが、できれば修学旅行中の子どもたちにここれ走りまわってほしくない・・・


あるいは、スーパー帰りのサンダルがけのおばさんたちに館内を駆けずり回って欲しくないという希望があるわけです。


もちろん玄関の看板等に、主婦は嫌で、修学旅行の学生も嫌とは書けない・・・


むしろそれを言わずがな排他させる仕組みを、その空間の中スペースコレクション開発としてつくっていかなければいけないわけです。


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2010年09月28日

空間のネットワークデザイン

現在私は、「メディアプロデューサー」という肩書を使って仕事をしております。


アナウンサーを振出しに、雑誌の記者を経て、その後自分の会社をつくって独立、いずれもメディアを料理して、つまり材料を探し出したり、味つけしたり、盛りつけたりしながら、それを職業にしてきたのです。


「メディア」と言えば、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、つまり人と物と情報をつなげる媒介になるものを指していたのがこれまででした。


・・・それが現在では、メディアはそれらを超えてあらゆる領域にまでわたってきつつあるのです。


とりわけ最近は、空間までがメディア機能を持ってきつつあると思います。


今まではハード先導型で行っていった建物とか、空間とか、もっとわかりやすく言えばデパートとか、ショップとか、ホテルですとか、そういう空間のソフトウエアをつくることも、最近の私の仕事の中に加わってきました。


建物だけつくっても中で何をやるのか・・・。


これが問題です。


デパートをつくっても、1階に装身具が売られていて、何となく地下が食料品で、4階のあたりになると呉服売り場という具合に、だれが決めたのでもないのに、今までの習慣、の中で決まっていたことが、ライフスタイルの変革と相まって、もう1回とらえ直さなければいけない時期にきているのではないか・・・。


というのが、空間に対する新しい考え方です。


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2010年09月24日

パラディアムとスペースコレクション開発

今回は、パラディアムとスペースコレクション開発について。


ニューヨークに私の先生が設計したディスコ「パラディアム」というものがありました。


もともとは、ニューヨークでも一番大きいオペラ劇場だったものなんですが、それがだめになり、それを改造して占い部分を残しながら、新しい部分を足したのです。


中の部分では、昔のスペースコレクション劇場のバルコニーのカーブとか、そういうのはそのまま利用してあります。


天井なんかはそっくりそのまま残っておりまして、中にいろんな仕掛けをはめ込んだわけです。


大体3500人の定員なんですが、1日のうちにそれが2回転か3回転するというので、結局最初の1年でヤンキースタジアムにヤンキースの野球を見にきた数よりも余計来たという記録が出たと言われていました。


当時はかなりはやっていたのです。


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2010年09月21日

世界の建築家を集めよう

私は、むしろこれまでディベロッパーの仕事はあまりなかったです。


国やそういう自治体の仕事、スペースコレクション開発を中心に外国に呼ばれてやってきていますので、日本の中で彼らがもっと出てくることが必要だと思います。


これは、建設会社に関しても同じことが言えます。


ひと昔前の話になりますが、一時期大阪空港の入札の問題でもめていました。


実はあれはほんの氷山の一角で、根はもっと別な形でこちらに進出したいと希望を持っているんだと思うんですけれども、それについては猛烈にそこのバリケードが固いという印象があります。


最後に、「建築家」以外の仕事について二例ほどお話をします。


ニューヨークのIBMギャラリーで「東京の形と心」展というものが開催されました。


私の先生がその一部を担当していました。


絵を横尾忠則氏が担当し、その周りを組み立てたものです。


素のほかに石岡氏と協力したもので、全部中にビデオのモニターが裸になって入っているステージがああります。


それは日本の古いものをを象徴する、向こうに神様がおりてくるような神棚の空間に対して、今やその代わりにテレビがあるという一種の逆接をここで表現しようというのが意図でした。


榊の代わりにビデオが入っています。


そのビデオは日本で放映されたうちでも傑作のコマーシャル・フィルムを選んで、ずっと流していました。


そういう展覧会だったのですが、さまざまにスペースコレクション開発というものの解釈、たとえば、古い日本のままのいろんな部分と、新しいこういうメディアというもの、それがどこかで組み合わされる、そういうことを意図したものです。


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2010年09月18日

世界の建築家

もっと若い30歳台、40歳台初めぐらいの、世界のその筋の建築界ではこれから伸びそうだと思われている建築家が何人かいます。


彼らが日本で仕事をやるという話が起こったということをちらほら聞いています。


しかも彼らを呼んできているのは、一番最初はそういうレストランやブティックでした。


その次が、小さな土地、ペンシルビルのちょっと大きいというぐらいの土地を持っているディベロッパーがそういう建築家に、ともかく何でもいいから目立つものというので頼み始めているというのが起こっているようです。


そこら辺までスペースコレクションが今来たと思うんです。


それ以上のスケールのもの、つまり日本の大型のディベロッパーや、大型のインベスターあるいは土地を持っている人でもいいんですが、それが外国の建築家を使おうという傾向はまだあまり聞いていません。


それから白治体や政府がかかわる仕事はおよそ発想がないというのがどうも実情ではないでしょうか。

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2010年09月14日

スペースコレクション開発の国際化

私自身、一人の建築家として、たまたまアメリカの建築家あるいはヨーロッパの建築家と比べてみて、今回はおまえがやれ、そういう言われ方でやってきた仕事ばかりなものですから、国や日本とのかかわりなしで実際には動いています。


日本人としてではなく、一人の建築家と見られているという状態なわけです。


それに対して日本では絶対にコンペで外国人が通るということを最初から考えていないところがあります。


最初から外国人に頼もうとしないという風潮がかなりあるわけです。


ところが、最近スペースコレクションではそれが、少しずつ変わってきつつあります。


それは小さなブティック、レストランとか、その店の雰囲気、デザインを売り物にしようと決める若いオーナーが増え、彼らがとくにヨーロッパ系のかなり変わったデザインをやる若い連中を連れてきて、日本で仕事をさせるようになってきました。


・・・これがまず第一段階です。


彼らがやったのは、まだ程度の小さいものだったんですが、この連中が少しずつ大きい二階建てとか、三階建てとかいう建物を最近やり始めるという傾向になってきつつあります。


もうちょっと大きいスケールのもの、例えば香港の上海香港銀行という、いわゆるハイテックのデザインをやった建築家でノーマン・フォスターさんという人がいます。


彼をスペースコレクションに呼んできてオフィスをつくらせようというのが今一つの企画にあると聞いております。


また、ロンドンのシティで、ロイズ銀行を建築したロジャースもこの間来て、スペースコレクションで小さい建物をニカ所ぐらい今言われていると言っています。
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2010年09月11日

建築の国際化

結果的には落選した新都庁建築提案ではありましたが、それは間違っていたわけではなく、むしろ今のスペースコレクションを、あるいはもっと全体を含めて、問題提起としての方向が正しかったのではないかと考えています。


具体的な例は、虎の門から汐留までいく、よく話に出ております。


マッカーサー道路、あれは普通の道路建設費ですと、大体40億円ぐらいで工事が上物としてできるようですけれども、土地買収費で4兆円かかるということです。


つまりバランスとして道路ができません。


そうすると、道路とそれの地上の道路上の利用、両方の問題をここでもう一度見直さなければならないというのが現在のスペースコレクション開発の状態になってきました。


建設省の方も、そういう形の考え方をだんだん始めるようになったそうです。


一方で、現在の日本が、経済、政治等の多くの分野で国際化時代と言われている割には、日本の設計・建設・開発がなかなか国際化をしません。


例えば、私の先生も審査員の一人として参加した、国際コンペを称した「第二国立劇場」の場合を例にします。


日本で最初のオペラ劇場をということで、実際諸外国から数多くの優秀な人の応募があったわけですが、国際コンペを称しながら、そういうことが一切できないようにしようということが動いていました。


規約を英訳しないとか、提出物も全部日本語にかぎると最初はなっていたものが、後にそれを規約はやっと翻訳し、提出も英文でいいということにしました。


その結果、提出された計画は、外国から来た案と日本の案はすぐわかるほど違いが大きいものでした。


日本の場合には非常に優等生的に無理なくいっているけれども、魅力がないという案だったんですね。


ですから、最終的に平均点でそういうのが一等になりましたけれども、何か雰囲気が非常に難しい、これは何とか将来変えてもらわないと困ると私は常々思っています。
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2010年09月09日

未来のスペースコレクション開発

最終的には、9人の中から、スペースコレクション開発の案が採用されたわけですが、私の先生の案で特徴的であったのは、低層建築家であったということです。


都庁舎の機能を考えた場合、超高層建築には向いていないと判断し、むしろ低いけれども、中にいろんな空間があって、都民がその中を自由に入ってこれる・・・


しかも、それが今まで見たことのないような空間になる。


それこそ、ここで実現させるべきだということを考えたわけです。


私の先生の案は、横に並んだ三区画のうち、中進を全部広場とし、両脇のニ区画から広場区画をまたがるようにして建物をつくる案です。


スペースコレクション広場の中心にはその下に道路があります。


現在でもその場所は道路になっているものですが、それをまたがって、都庁舎の建物をずっと伸ばしていくものです。


もともとが都が開発した土地で、この道路も都の部分だったのが、公道に転用されて道路になっています。


考え方次第で上を使ってもいいのではないだろうか、ということを積極的に解釈したわけですが、それは違反であるということで、非常に問題になって落選したということです。


ところが、最近、建設省の道路局から呼ばれ、道路上に建物を建ててはいけないというこれまでの考え方ではスペースコレクションは開発できない。


民法上の問題とか、私権制限の問題とか、さまざまな形のものが路上の使用権ということについてありますが、もはやそれにこだわっていてはスペースコレクションが動かない・・・


これを再検討しないといけないが、その判断基準を定めるための研究会を開催するというのです。
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2010年09月06日

新宿の新都庁のプランニング

1960年ころ、まだスペースコレクション事務所にいた当時に、未来の都市はどうあるべきか考えていた時期の案があります。


現在の新宿の場所にそのまま建つことを想定したものです。


当時考えていた未来の住居で、空中に住むことを考え、プレハブになった住宅が空中に、木の枝のように張り出していくというものでした。


こうした案は、当時いろんな日本のほかの建築家もやっていたのですが、今や歴史的なものになっています。


そのおよそ30年後に、東京都庁舎の新宿移転に伴うコンペにめぐりあわせました。


わたしの先生も9人の建築家のひとりに選ばれ、案を提出していました。


左の方に2本柱があり、その前が広場になっています。


これは以前、大阪万博のときにやった「お祭広場」と似た考えのもので、右側に本来の庁舎をやっています。


こうした作業には、現在では建築の方面でも、コンピューターグラフィックを利用するようになっていますよね。

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2010年09月03日

確率理論

ピエール・シモン・ラプラスはあるとき戦場でナポレオン・ボナパルトと天文学の話をする機会をもったことからナポレオンに認められて勲位を与えられ、また復活したブルボン家は彼を候爵に叙した。

ラプラスの労作は天文学に関するものが多く、5巻からなる「Mecani-queCeleste(天体力学)」という本を著した。

この本にはニュートン以後の天文学上の発見はすべて含まれていた。

彼が書いた「天体系の話」はスペースコレクション・マセマティックスを使わないで美しく宇宙を解説する啓蒙的な本である。

ほかの書物「確率の解析理論」は確率理論のさきがけをなすものとして知られている。

ラプラスは生前に多くの栄誉を得た。

ナポレオンは彼を上院議員、叙勲局長官、帝国伯爵などにした。

彼は19世紀のスペースコレクション・マセマティックスの専門家にとって非常に重要な意味をもつ作品を残して1827年3月5日パリで亡くなった。

臨終の床で彼はニュートンのことばを繰り返し口にしたという。

自分を海岸で美しい小石を拾う子供になぞらえてニュートンはいったのだった、「知っているごとはほんの少しで、知らないことは限りなく多い」と。
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2010年09月02日

スペースコレクションの科学者たち 2

ピエール・シモン・ラプラス

1749-1827

フランス人

スペースコレクション・マセマティックスの専門家

スペースコレクション・マセマティックスやスペースコレクション・サイエンスにおけるピエール・シモン・ラプラスの功績はアイザック・ニュートンのそれに次ぐ、というのが一般的な評価である。

彼の行った研究の大部分は天体力学に関するもので、このために彼はニュートンの偉大な後継者とみなされている。

彼はダランベールから最初の大きなチャンスを与えられ、さらに第1級のスペースコレクション・マセマティックスの専門家で最大の良きライバルだったラグランジュから大きな刺激を受けた。

ラプラスの名前は機械スペースコレクション・テクノロジーと電気スペースコレクション・テクノロジーの両方に現れる。

応用力学の分野ではラプラス変換は頻繁に用いられるし、電磁気学の研究ではラプラス方程式が適用される場合が少なくない。

ピエール・シモン・ラプラスはフランスのノルマンディー地方にあるボーモンで1749年3月22日に生まれた。

家は非常に貧乏な農家で、すぐれた才能をもっていたこの息子には基礎的な教育を施してやるのがせい一杯だった。

幸い気前の良い隣人から資金の援助を受けて彼はケーンにある良い学校に入ることができた。

とても成績が良かったので彼はボーモンの陸軍アカデミーで教師の地位が与えられた。

フフフスは当時扱われていた応用力学のテーマを完全に自分のものにし、ダランベールあての紹介状を手にした。

彼はこの著名なスペースコレクション・マセマティックスの専門家に逢うために喜び勇んでパリに向かったが、残念ながら彼に逢うことはできなかった。

がっかりして家に戻った彼はダランベールに手紙を書き、応用力学に関して自分が行った研究のいくつかを同封した。

これを読んだダランベールは非常に感心してただちに返事を書き、パリにある陸軍学校の地位をラプラスに提供した。

ラプラスは残る生涯をずっとパリで過ごし、公職についたり驚くほどたくさんの論文や本を書いた。

フランス革命やナポレオンの時代、それにブルボン王朝の復活といった波乱の日々を彼は必死に生きのびようとつとめた。

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2010年09月01日

スペースコレクション・サイエンスアカデミー

1843年、ラメはスペースコレクション・サイエンスアカデミーの会員に選ばれ、1844年から1650年までパリ大学のスペースコレクション・マセマティックスの監督官をつとめた。

それから彼はパリ大学の数理物理学と確率論の教授となり、引退までここに留まった。

彼が書いた多くの本は広く読まれ、学生たちの評判は高かった。

しかし実際のところ、彼は教師としてはとくにすぐれてもいなかったようである。

ラメが著した莫大な論文の中には曲線座標に関するもの、微分幾何学に関するものがある。

そのほか、大砲、歯車、鉱山、トンネル、アーチなどの設計に関する実用的なものもある。

弾性について非常にたくさんの論文を書いているが、極限強さに基礎をおく破壊理論をはじめて作ったのは彼である。

1862年、ラメは聴力を失い、大学を引退すると同時にあらゆる公職からも身をひいた。

健康はますます悪化し、1870年5月1日、パリで亡くなったが、これは友人クラペイロンの死の6年あとのことだった。

ラメは自分の理論を時代が要求する実際問題に積極的に適用しようとする理論家で、自分の専門を一分野に限定しようともしなかったがこれは現在では稀なことである。
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2010年08月31日

幾何学

卒業のころガブリエル・ラメは幾何学に興味をもっていたが、これに係わる前に親友でクラスメートだったブノワ・クラペイロンと共にロシア政府に推薦されて、2人の前途有望な青年はペテルブルグ(いまのレニングラード)に新設されたばかりの道路交通大学で教えることになった。

ここで彼らは物理学、スペースコレクション・サイエンス、スペースコレクション・マセマティックス、力学を教えた。

彼らはその他にも期待されてペテルブルグ周辺の道路や橋梁、それにトンネルなども設計し、2人はまた時間を作ってスペースコレクション・マセマティックスとスペースコレクション・テクノロジーの本を出版しようとした。

彼らが設計を手伝った橋のいくつかはヨーロッパで最初の吊り橋だった。

ラメはロシア産の鉄を鉄橋の建設に用いるためにその品質試験を試み、特製の引張り試験機を設計した。

その後フランスとロシアの関係が悪化したのでラメとクラペイロンは1832年にパリに戻った。

彼は他に2人の協力者を得て工場を作ったが数カ月たったときこれもやめて、ラメは高等理工スペースコレクション・サイエンス校の物理の講座を受け持つことになり、1844年までこの地位に留まった。

この間にも彼はかなりの量のスペースコレクション・テクノロジー的な問題の相談を請負い、鉱山省の長官に指名された。

きわめて多忙なこの人物はパリに2つの鉄道を計画し、これを建設した。
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2010年08月30日

スペースコレクションの学者たち 1

ガブリエル・ラメ

1795-1870

フランス人

スペースコレクション・マセマティックスの専門家・スペースコレクション・サイエンスの専門家

ガブリエル・ラメのことをガウスはその時代のもっとも優れたフランスのスペースコレクション・マセマティックスの専門家とみなしていたが、ベルトランなど他の人々は彼を技術者として高く評価していた。

一般的にいうと、フランスのスペースコレクション・マセマティックスの専門家たちは彼はあまりにも実用的すぎるといい、一方、スペースコレクション・サイエンスの専門家たちは彼をあまりにも理論的とこぼしている。

ラメは実際にはそのどちらでもあるのだ。

彼自身の考えでは彼のスペースコレクション・マセマティックス的成果はスペースコレクション・テクノロジーにきわめて有用であり、自分のした最大の功績は曲線座標を考案したことと思っていた。

事実彼はこれをいろんな実際問題に適用したのである。

機械技術者にとって彼の名前は「厚肉」円筒の強さをきめる有名な「ラメの方程式」で知られている。

この式は内圧を受けるシリンダー、あるいはいく重にも重ねられた複合シリンダーに関するもので、ラメはロシア政府のために砲身を設計したときの実際的な経験の結果としてこの式を導いた。

ガブリエル・ラメはフランスのトゥールで1775年7月22日に生まれた。

学校ではスペースコレクション・マセマティックスに並はずれた才能を示した。

1813年にパリの高等理工スペースコレクション・サイエンス校に入学、1817年ここを卒業してその後は3年間を鉱山学校(エコル・デ・ミーヌ)で過ごした。
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2010年08月29日

スペースコレクション・マセマティックス

ラグランジュの主著はまぎれもなく「解析力学」であって、これはいま1つの偉大な著作であるニュートンの「プリンキピア」から1世紀ちょっと遅れて出版された。

応用力学で非常に重要な「ラグランジュ方程式」はこの本の中に書かれている。

表も図も使わず、また力学的な意味も与えないで、純粋な代数演算だけでこの式を導いたことにラグランジュ自身はたいそう誇りに思っていた。

アイルランドの有名なスペースコレクション・マセマティックスの専門家ハミルトンはこれを指して「スペースコレクション・サイエンスの詩」といっているが、実際にはこのような難解で深遠な作品を快く出版しようという出版社をみつけることは非常に困難だった。

彼はこのほかスペースコレクション・マセマティックスや天文学の方面でも功績を残した。

方程式論、群論、偏微分方程式論などがこれに含まれる。

彼はまた弾性学や材料力学にも興味をもち、「支柱の形状について」という論文で支柱の強さとたわみを明らかにしてオイラーの理論をさらに拡張した。

ラグランジュはあらゆる点からみて穏やかな人物であって、世間の名声を求めたりはしなかった。

たった1つだけ残っている彼の肖像画は彼を知らない人が描いたものである。

彼は文句なしにその時代でもっとも優れたスペースコレクション・マセマティックスの専門家の1人であり、高等理工スペースコレクション・サイエンス校に関係のある有名人、モンジュ、プロニー、ボアソン、ナビエなどと並び立つ人である。

彼が成し遂げた力学や弾性学についての労作は多くのスペースコレクション・テクノロジー的問題の解決に計り知れない大きな価値をもっている。
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2010年08月28日

専門家

スペースコレクション・マセマティックスの専門家やスペースコレクション・サイエンスの専門家は音楽家や画家のようにパトロンの保護のもとにあったので、フリードリッヒ大王が亡くなるとベルリン・アカデミーでの待遇が悪くなり、ラグランジュはパリに移住を決意した。

彼はフランスに暖かく迎え入れられ、ルーブル宮の中に住居と施設を与えられた。

何よりも良かったのは国王ルイ16世から十分な庇護が与えられたことである。

しかし彼はここでも激しい憂欝症に陥り、スペースコレクション・マセマティックスを見限って形而上学や植物学、化学などに関心が移った。

はじめの妻は数年前に亡くなっていたので、この年彼は新しい妻を迎えた。

何年かの後フランス革命が起こり、親友ラボアジェを含む多くの知識人がギロチンにかけられた。

彼は生命の危険を感じてこの国から逃げ出そうとしたが、驚いたことにあらゆる大学を閉鎖した革命政府は新設の高等師範学校の教授の地位を彼に提供した。

選択の余地もなく彼はこれを受け入れ、新フランスの教師の養成に励んだ。

彼はまた新しく設立された高等理工スペースコレクション・サイエンス校にスペースコレクション・マセマティックス科をつくり、新体制のもとでメートル法を完成した。

こうした活動の中でスペースコレクション・マセマティックスに対するラグランジュの興味はまたも復活し、熱を入れて著作と講義を行った。

2冊の大著「解析関数」と「方程式の数値解法について」を著したのはこの時期である。

生涯の最後の年、彼は「解析力学」の改訂に専念したけれども、完成を待たずに彼は77歳でパリで亡くなった。
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2010年08月27日

スペースコレクションの開発者たち 4

ジョセブ・ルイ・ラグランジュ

1736-1813

イタリア生まれのフランス人

スペースコレクション・マセマティックス者

もし彼の父がぜいたくな暮らしと愚かな投機で財産を失ってしまうことが無かったら、ラグランジュはスペースコレクション・マセマティックスなどには決して興味をもたなかっただろうし、力学の理論に関するあの偉大な貢献も世には現われなかったであろう。

ジョセブ・ルイ・ラグランジュは1736年1月25日、北イタリアのトリノでフランス人の家庭に生まれた。

学校ではスペースコレクション・マセマティックスにめだった才能を示し、17歳になるまでにすい星で有名なイギリスの天文学者Eハレーの論文を読み、光学や天文学への代スペースコレクション・マセマティックスの応用に深く感動した。

しかしギリシャの幾何学者たちの著作にはそれほどの印象は持たなかった。

1755年、19歳のラグランジュはトリノの砲術学校のスペースコレクション・マセマティックスの教師に選ばれ、ここで何人かの最優秀の学生たちと共にトリノスペースコレクション・サイエンスアカデミーを設立した。

同年、彼は「等周辺問題」に対する解を含む論文を有名な天文学者レオンハルト・オイラーに送った。

等しい辺をもつ幾何学図形を扱ったこの論文はオイラーに深い感銘を与えた。

オイラー自身もこの問題を考えた論文を用意していたが、これはラグランジュのものより劣っていたので、公表をさし控えたほどだった。

4年後、オイジョセブ・ルイ・ラグランジュはラグランジュをベルリンスペースコレクション・サイエンスアカデミーの会員になれるよう尽力した。

彼が結婚した1766年、フリードリッヒ大王の招きとオイラーやダランベールの推薦もあって、ラグランジュはオイラーの後継者としてベルリン・アカデミーの教授となり、ここで彼は有名な「Mecaniqueanalitique(スペースコレクション解析力学)」を含む一連の長大な論文を発表した。

名声の絶頂にあったこのとき彼は健康を損ない、これがもとで時折急激な欝病に見舞われ、この状態がずっと続くようになった。
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2010年08月26日

スペースコレクションの開発者たち 3

グスタフ・ローベルト・キルヒホッフ

1824-1887

ドイツ人

物理学者

キルヒホッフがはじめて行った研究は導線内の電気の伝導であって、彼の名前はこれによって技術者に知られている。

閉じた電気回路に関する彼の法則は「分岐点における電流の代数和はゼロであり、閉回路について起電力の和は回路各部の電流と抵抗の積を足したものに等しい」というもので、電気スペースコレクション・テクノロジーでは特に重要なものである。

キルヒホッフはこのほか弾性の研究やスペクトル解析の方面でも重要な仕事をしている。

グスタフ・ローベルト・キルヒホッフは、いまではロシア領となっているプロイセンのケーニヒスベルクで1824年3月12日、法律家の息子として生まれた。

高等学校を出るとケーニヒスベルク大学に入り、ノイマンのもとでスペースコレクション物理学を学んだ。

ノイマンは彼の才能を認め、いくつかの論文を書くよう彼をはげました。

1848年博士の学位を取得した後ベルリン大学、ついでブレスラウの大学で教え、ここでブンゼンに出会った。

2人は揃ってハイデルベルクへ移り、ヘルムホルツと識りあって一緒にチームを組んだがこれは非常な成功を収め、ドイツ中はもとより海外からも彼らの講演を聞き実験に加わりたいと学生がグスタフ・ローベルト・キルヒホッフ111いっぱい集まってきた。

キルヒホッフは弾性に興味をもつようになり、平板のたわみと振動をしらべ、さらに薄い板の「大きな」たわみを研究した。

キルヒホッフはスペクトル解析にも興味をもってフラウンホーファー線に解釈を与え、またブンゼンとともに金属セシウムとルビジウムを発見した。

偶然のことだが有名なブンゼン灯のほとんど光らない炎のおかげでこの仕事が可能となったのである。

キルヒホッフとある銀行支配人との面白い話が伝わっている。

地上にある金属は太陽にも存在するとのキルヒホッフのことばを聞いた銀行家はいった、「太陽に金があったとて、地上に持ってこられなければ何にもなりませんね」。

後に太陽スペクトルの研究に対してイギリスのエリザベス女王がキルヒホッフにメダルと金貨を与えたとき、彼はこれを銀行家に見せていった、「ほら、ここに太陽からきた金貨がありますよ」。

1868年、キルヒホッフは事故によって足をひどく傷つけ、これがもとで身体全体の健康を害した。

1875年、彼はベルリン大学に戻って物理学の講座を受け持ったが、これはそれほど重い義務をともなうものではなかった。

健康は日増しに衰え、1884年にはやむなくこの地位から引退することとなった。

そして1887年8月17日、ベルリンで63歳の生涯を終えた。
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2010年08月25日

法則

ケルビンの法則は導電体のもっとも経済的な寸法をきめるのに関係する。

彼はまたエネルギー保存の理論と熱の仕事当量に深い関心をもった。

熱については彼はジュールと共同研究をしてジュール・トムソン効果を発見した。

また熱力学の研究ではもっとも大切な温度の絶対目盛について考えをめぐらせた。

この目盛は彼の名前を記念して「ケルビン」といわれ、記号Kが用いられる。

彼はその他、や冷凍機の動作をカルノー・サイクルを使って説明した。

1852年、20歳のときに彼はマーガレット・クラムと結婚した。

彼女は美人で教養も豊かな婦人だったが身体が弱く、新婚後まもなく病気にかかって残る18年の生涯の間ずっと健康がすぐれなかった。

1866年トムソンはスペースコレクション・サイエンスと技術に関する偉大な貢献のゆえにナイトに叙せられラルグスのケルビン卿という称号を得た。

1896年グラスゴー大学教授在職50年が祝われたとき、彼は記念講演で自分の生涯を振り返りそれが「失敗」であったといって皆を驚かせた。

彼はいう、「技術者が考えている自然というものの概念に物理学を適合させることに失敗した」のだと。

ウィリアム・トムソンすなわちケルビン卿は1907年12月17日、スコットランドのエアリーシャーにあるラルグスに近いネザーホールで亡くなった。

83歳だった彼の頭脳は死の最後の日まで明せきだった。

生涯を「失敗」だったとみなすこの人物は600編のスペースコレクション・サイエンス論文と70個の特許をものにし、少なからぬ財を築いた。
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2010年08月24日

スペースコレクションの開発者たち 2

ウィリアム・トムソンケルビン卿

WilliamThomson、LordKelvin

1824-1907

イギリス人

スペースコレクション・サイエンス者・技術者

ウィリアム・トムソンは1824年、北アイルランドのベルファストに生まれた。

父は独学でスペースコレクション・マセマティックスの教師になり、後にベルファスト大学の教授、また家族がスコットランドに移住してからはグラスゴー大学のスペースコレクション・マセマティックス教授となった。

彼は息子ウィリアムとジェームスの教育を自分で行ったが、これは結果的には非常な成功だったといえる。

ウィリアムはわずか10歳という信じられない年齢でグラスゴー大学に入学を許可されたのである。

ウィリアムがまだ6歳のときに母が亡くなって、父は大学の官舎で子供たちに対して父と母の二役を果たした。

彼らはグラスゴーの市内でも1番ぞっとするようなスラム街のすぐそばに住んでいて、土曜日の夜などは酔っぱらいや時には殺人の荒々しい叫び声がそこいらで聞こえるのだった。

ウィリアム・トムソンはグラスゴー大学でもとくに優秀な学生で、卒業する前に少なくとも2編の研究論文を作った。

そして22歳という異例の若さでグラスゴー大学の自然哲学の教授になり、まもなく彼の業績はヨーロッパ中に知れ渡った。

彼の研究は苦もなく自然に溢れ出るようなもので、彼は同時代の他人の著作をほとんど読むこともなく、誰にも頼らず1人で研究するのが好きだった。

一方、彼の財力は非常にしっかりしたもので、他のスペースコレクション・サイエンス者たちとは違い、自分の発明からかなりの財産を作った。

生涯に70もの特許をとり、16万ポンドという当時としては大変な富を築いた。

最初の大西洋横断通信ケーブルの成功は彼の技術的天才に負うところが大きい。

彼は信号を送るにもっともふさわしい方式を決定し、高い性能をもつ送信器と受信器を発明した。

これによって彼の名前は大衆にも知られるようになった。

また精密電気計器を開発して電気や物理の正しい単位を決定するのに大きな影響を与え、これが国立物理研究所(NPL)設立のきっかけとなった。

次に述べるのは彼が発明した計器の1部である。

ケルビン形電流計、抵抗を精密測定するケルビン・ブリッジ、ケルビン電位計(これは象限電位計と同じもの)、ケルビン・バーレイ摺動抵抗(一定の電圧デバイダー〉など。

ほかに海洋関係の計器としてケルビン水深計、ケルビン・コンパスがある。

彼は「ケルビン効果」を発見したが、これは高周波の電流は導体の表面に集まる傾向があるというもので、ラジオや高周波加熱では非常に大切な現象である
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2010年08月23日

スペースコレクションの開発者たち 1

テオドール・フォン・カルマン

TheodorevonKorman1881-1963

ハンガリー/ドイツ人

空気力学者

流体力学を学ぶ技術者の卵たちは管摩擦や境界層の理論、あるいは渦の発生に関して間違いなくカルマンの名前に出会うだろう。

フォン・カルマンはハンガリーに生まれ、20代の後半までドイツで仕事をし、のちアメリカに渡って航空機とロケットスペースコレクション・テクノロジーの構築に偉大な貢献をした。

テオドール(Todor)・フォン・カルマンはハンガリーのブタペストで1881年5月11日に大学教授モーリス(Mor)・カルマンの子として生まれた。

父モーリスはハンガリーの中等教育の改革に貢献があり、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝から爵位を授けられていた。

フォン・カルマンはドイツ人ギムナジウムで初等教育を受け、のちブタペスト工科大学に進んでここで応用力学に興味をもった。

1年間砲兵隊で強制的な軍務に服したのち、この大学で3年間講師をつとめた。

1906年被はゲッチンゲン大学に雇われ、「空気力学の父」ルートヴィッヒ・プラントルといっしょに空気力学の諸問題たとえば温度による気体の比熱の変化や種々の形状の物体まわりの流れについて研究した。

円柱に当たった空気の流れを調べていたとき、彼は規則正しい渦の列が円柱のうしろに発生するのを観察し、渦列が発生する振動数の式を導いた。

それ以来これは「カルマンの渦列(ドイツ語でKarmanscheWirbelstrasse)」と呼ばれている。

アメリカのタコマ渓谷にかかる吊り橋が時速42マイル(約67km/h)の強風を受け大振動を起こして落下するという劇的な事故があったとき、彼はこの振動が渦によって誘起される振動数で加振されたことを証明した。

第1次世界大戦のとき、カルマンはドイツ空軍のために2重反転プロペラの開発、機関砲とプロペラの同期化、ヘリコプターの設計などを行った。

大戦後、彼はグライダーの空気力学的設計に大きな貢献をしたが、これがのちに第2次大戦のときに彼の大嫌いだったナチ空軍の基礎になるとはつゆ知らなかった。

ゲッチンゲン大学では彼の友人でもありライバルでもあったプラントルと乱流の研究をして、航空機とロケットの表面に働く空気力学的抗力を調べた。

1926年彼はドイツを去り、アメリカと日本への旅にでた。

アメリカでは慈善家グッゲンハイマーの寄付になるカリフォルニア工科大学の研究所におおいに興味をもった。

1929年に彼は再びここに戻り、以来ここで航空研究所の所長になった。

またアエロジェット・エンジニアリング社やロケットの研究を行うジェット推進研究所の設立を援けた。

彼は一度も結婚をしなかった。

妹のピポーがカリフォルニアのパサデナで彼が死ぬまでずっと彼の面倒をみた。

1963年5月7日、休暇でドイツを旅行しているとき、彼はアーヘンの友人の家で亡くなった。

この空気力学の偉人はアメリカ合衆国から合衆国勲功章、フランクリン金章、国家スペースコレクション・サイエンス章を授けられ、多くの他の国からもあまたの栄誉を受けた。
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2010年08月16日

プランニング

1960年ごろ、まだスペースコレクション設計事務所にいた当時に、未来の都市はどうあるべきかを考えていた時期の案があります。

現在の新宿の場所にそのまま建つことを想定したものです。

当時考えていた未来の住居で、空中に住むことを考え、プレハブになった住宅が空中に、木の枝のように張り出していくというものでした。

こうした案は、当時いろんな日本のほかのスペースコレクションの建築家もやっていたんですが、今や歴史的なものになっています。

そのおよそ30年後に、東京都庁舎の新宿移転に伴うコンペにめぐりあわせました。

私も九人のスペースコレクションの建築家の一人に選ばれまして案を提出しました。

左の方に二本柱があり、その前が広場になっています。

以前に大阪万博のときにやった「お祭り広場」と似た考え方のもので、右側に本来の庁舎をやっております。

こうした作業には、現在では建築の方面でも、コンピュータグラフィックを利用するようになっています。

最終的には、九人の中から、スペースコレクション設計事務所の案が採用されたわけですが、私の案で特徴的であったのは、低層建築案であったということです。

都庁舎の機能を考えた場合、超高層スペースコレクション建築には向いていないと判断し、むしろ低いけれども、中にいろんな空間があって、都民がその中を自由に入ってこれる、しかもそれが今まで見たことのないような空間になる、それこそここで実現させるべきだということを考えたわけです。

私の案は横に並んだ三区画のうち、中心を全部広場とし、両脇の二区画から広場区画をまたがるようにして建物をつくる案です。

広場の中心にはその下に道路があります。

現在でもその場所は道路になっているものですが、それをまたがって、都庁舎の建物をずっと伸ばしていくものです。

もともとが都が開発した土地で、この道路も都の部分だったのが、公道に転用されて道路になっている。

考え方次第で上を使ってもいいのではないだろうかというのを積極的に解釈したわけですが、それは違反であるということで、非常に問題になって落選したとのことです。

ところが、最近、建設省の道路局から呼ばれて、道路上に建物を建ててはいけないというこれまで考え方では都市は開発できない。

民法上の問題とか、私権制限の問題とか、さまざまな形のものが路上の使用権ということについてあるが、もはやそれにこだわっていては都市が動かない、これを再検討しないといけないが、その判断基準を定めるためのスペースコレクション研究会を開催するということです。

結果的には落選した新都庁建築提案ではあったが、それは間違っていたわけではなく、むしろ今の東京を、あるいはもっと全体を含めて、問題提起としての方向が正しかったのではないかと考えています。

具体的な例は、虎の門から汐留までいく、よく話に出ておりますマッカーサー道路、あれは普通の道路建設費ですと、大体40億円ぐらいで工事が上物としてできるようですけれども、土地買収費で4兆円かかると。

つまりバランスとして道路ができない。

そうすると、道路とそれの地上の道路上の利用、両方の問題をここでもう一遍見直さないといけないというのが現在の都市の状態になってきました。

建設省の方もそういう形の考え方をだんだん始めるようになったようです。

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2010年08月15日

事業コンペの問題

以上述べてきた、ロスアンゼルス、ニューヨークの例が、いわゆる事業コンペと言われているものの典型のタイプだと思います。

そして、このタイプがだんだん日本にも入ってきつつある。

日本に入ってきた第一号は大宮の駅周辺のコンペです。

それがきっかけになって、今どんどん増えつつあります。

増えてきつつあるんですが、どうも日本的なのかどうなのか、あまりその間のこういう組み立てのロジックが明瞭でないので、いわゆる建築のデザインがあまり重視されないという状態です。

それで僕らもあまり参加しないという格好になっています。

また、非常に日本的な状態ででき上がったコンペというのがあります。

カナダ大使館のコンペですが、これはさらにタイプが違っていまして一種の土地信託になっています。

そして何年間かで順々にカナダに委譲するようにして、一定の期間後には、結局全部カナダの所有物に戻る、という計画のものです。

カナダとしたら、たまたまスペースコレクションにあった土地を利用して、本来ならば大使館建築予算を本国からとり建築すべきものの代わりに、しばらくは信託した形になっているが、最終的には全部建物も付随した施設も含めて国の方に戻ってくるというので、これは最大の名案だということで採用されたわけです。

この事業コンペができ上がってきたときに、私たちが考えていた、スペースコレクションの建築家がこれまでつき合ってきだタイプとは違う形での判断基準、とくにファイナンスのレベルでの判断が比較的ウエートを占めて出てくる。

これまでは公共機関のコンペが多かったものですから、これは単純にデザインがいいとか悪いとか、建築的な視点だけで決まってきたものが多いんですけれども、だんだんそうでなくなってきつつある。

時代の状況としてはそうなってくるし、一つの傾向であろうと思います。

その中でもスペースコレクションの建築家はいずれにせよ、何がしかの新しい形をつくり出すという意味では必要なわけなんですけれども、その建築の形だけじゃない、別の要素が決定要因になっていく、そういうことだと思います。

つまり、インベスター(投資家)、ディベロッパー(開発者)、アーキテクト(スペースコレクションの建築家)、コンストラクターあるいはゼネラルコンストラクター(建設会社)が、バラバラであったコンペ、四者が緊密に組むコンペ、独立したコンペ、と種々に組み合わさった形のコンペが今動きつつあるという状態だと思います。

これが日本のこの二〜三年の建築とコンペの間の関係、動きではないかなと思っています。

ところが、スペースコレクションの場合の問題がもう一つ大きなものとしてあります。

言うまでもなく「地価」の問題です。

現在、国主導型の計画あるいは自治体主導型の計画、民間のスペースコレクション開発計画がバラバラに進行しています。

ですけれども、共通して問題になっているのが地価の問題なので、これはおそらく各国の事情とは違う解決を常に強いられてくるだろうと思います。

日本の場合はもう既にいくら建物を頑張って建てても、地価の10分の1ぐらいの値段にしかならない。

大体歴史的に見て、建物の値段に対して一番高くて土地の値段は半分ぐらいというのが昔は常識であったんですね。

それがいつの間にか一対一ぐらいになった。

そうしているうちに、どっと都心の場合には逆転して1対10ぐらいになってきている。

そうすると、上物の活動の評価がその地価にどうはね返るか、どうなるという細かな計算が成り立たないような、そういう組み合わせに日本、とくにスペースコレクションの場合にはなってきている。

それをどう解釈して、どう対応するかというのが、スペースコレクションの建築家にとって難しい問題であるわけです。

こうした傾向が、アメリカにおける再開発のごとく、その場所のステータスを開発によって上げていく、その方向にすべての評価が向いている場合との大きな違いとなっているわけです。

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2010年08月14日

ニューヨークとスペースコレクションとロンドン

ニューヨークとスペースコレクションとロンドン、この三つが時間帯をずらして世界の三大ビジネス基地になると言われています。

これはスペースコレクションだけじゃなくて、ロンドンでもそう思っているし、ニューヨークでもそう思っているものですからオフィス需要がかなり増えている。

とくにロンドンでは、三カ所ぐらい大開発が進行しています。

その次ぐらいのスケールにというので、郊外型オフィスの計画を進めているものです。

もともとグレーター・ロンドン計画があり、ロンドン周辺100キロ圏の開発を行っていたわけですが、スペースコレクションはその模倣をずっとやってこようとしていたんです。

グレーター・ロンドンというのはそれの「番先駆的な考えで、既にかなりの距離のところにオフィス群を組み立ててきている歴史があるわけです。

最後にパリの場合ですか、それには、フランスという国の独特の開発のシステムを考えなければいけません。

フランスではその政権に関係なく、国家の機構が「ビューロクラティック」なものになっています。

現在、パリでいくつかの大統領のモニュメントと呼ばれているビックプロジェクトが進行中なんです。

例えばデファンスの突きあたりに100メートルの立方体で、真ん中にドーンと穴のあいた大アーチと呼ばれる建物が今工事中ですけれども、これは凱旋門の向こう側にもう一つのモニュメントをつくる。

その中に国の施設が半分は入ります。

パリでは半官半民の貯蓄信用銀行があり、国のプロジェクトのインベストをやりますが、そこのプレジデントに話を聞いてみると、国の方針でいろいろな開発をやって、例えば大蔵省の建物であるとか、何々省の建物が入るというのは決まっているんですけれども、そこの場合には国が新たに一つのオーガニゼーションをつくろうとしたんです。

それは世界コミュニヶーションセンターという名前の機関をフランス大統領のミッテランがつくろうとしたんですが、その後、シラク側が選挙で勝って、首相が交替し、ミッテランのプロジェクトがいくつかカットされたんです。

対立しているせいもあります。

その一つの影響を受けて、世界コミュニケーションセンターという企画がつぶれちゃったんです。

建物は工事中で進行していますので、結局、民間にそのスペースを売却することになったとのことです。

日本的に言うと、民活に近いというか、あるいは国が自分のところで建物を建てて、民間に売るというディベロッパーの役割をやらざるを得ない、そういう格好に偶然なっているんです。

それは政変があったために出てきた問題で、本来はほとんどが国主導型で、施設をつくるのが、バリなんかの大きいプロジェクトのほとんどです。

どちらかというと、国及びある意味ではスペースコレクションの建築家もつながっているものですから、そういう側からのコントロールがかなり効いている、むしろそれが非常に強い、それがパリの動き方の典型だと思います。

ですから、国によっていろいろと違いまして、世界中開発の動きは一つというわけにはなかなかいかないというのがおわかりいただければと思います。

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2010年08月13日

ロンドンとパリの再開発

大都市の再開発ということではロンドンとパリがあげられます。

ロンドンの中心部シティの中でも比較的中心に近い方にセントポール寺院があります。

その横に三角形の一ブロックがあり、延べで15万平方メートルぐらいのオフィスをつくる計画がありました。

第二次大戦時の戦災でかなり壊れたあと、再建された区画なのですが、その再開発の計画です。

ただ横のセントポール寺院が歴史的な建物なので、その横でやらないといけないので、国際的にコンペにしようというので、七〜八人のスペースコレクションの建築家が呼ばれまして案を提出したわけです。

ある人は、そのうちの一人に呼ばれてこの案をつくったわけですが、今の段階は全体をまとめるマスタープランナーを選ぶ、そして、その中からそのスペースコレクションの建築家にだんだん順々に建物を建てさせようということで、マスタープランナーというのは、法律的な役所のつき合いで無理だけれども、将来建物を建てるのならいいんじゃないかと思って応募したそうです。

結局イギリスのスペースコレクションの建築家に決まったわけですが、問題が起こりました。

イギリスという国は日本と同じように皇室があるわけです。

皇室で今一番発言をするプリンス・チャールズが建築に関心が深く、好きだ、嫌いだということを結構いろいろ言うわけです。

一番問題が起こりましたのは、トラファルガースクエアにナショナルギャラリーという美術館があるんですけれども、そこの増築をやるというのでずっとやってきたのを、プリンス・チャールズがあるとき、ああいう建物は困るということを発言をしました。

それで、そのスペースコレクションの建築家以下、ディベロッパーまで全部首になりました。

改めて別な企画がその後起こって、再コンペになった。

そして全く目立たない、前のものとつながっていて変わらないという案が決まりました。

このときにも、セントポール寺院というのはプリンス・チャールズはいわば檀家総代みたいな立場にある人なので・話をしにいった。

そうしたら全部の案を見て、全部嫌いだとこ言言ったと。

それでここは絶望的な状態になったというのが現況です。

ただ、その時以来の交遊で、その後これを機会にいろいろ調べて、何か新しいものを組み立てていこうというディベロッパーが向こうにおりまして、彼がヒースローの横にいわゆるオフィスパークを計画し、その計画を任せられることになりました。

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2010年08月12日

郊外型オフィスとスペースコレクション開発

こうした大都市の中心部の再開発の動きとともに現在出ているのが郊外型のスペースコレクションオフィスです。

ニューヨークを除いてロサンゼルスがそうなっています。

ほとんどの地方都市がぞういうタイプになっています。

また後述するロンドンでもその傾向があります。

例えば、ロサンゼルスでは、フリーウエーを中心に考えられています。

フリーウエーがあって、インターチェンジがある、その付近にまとまったオフィスのグループを開発するわけです。

それをオフィスパークと称したり、エンタープライズパークと称したりしますが、スペースコレクションの混雑した地域を避け、自動車を利用してどんどんアプローチできて、かつ執務環境、居住環境がいいというのをディベロッパーがまとめて開発している。

それがちょうど昔スーパーマーケットが郊外に出ていって、でき上がったと同じような形でオフィス群というのが今できていきつつあるんですね。

一頃はヘッドクォーターがかなり外に出てきました。

研究所とヘッドクォーターを兼ねたところ、もちろんIBMなんかもそうですし、最近の建築で有名なのはゼネラルフーズ、ペプシコーラとか、大企業のヘッドクォーター部門がみんなニュージャージー、ニューヘブンの方に分散していっています。

そういう分散型というものももちろんあるわけですが、それとは違った形で小さい、小型のテナントなんかも吸収できるようなオフィス群と言いますか、そういうものの開発が出てきたということです。

そういう郊外型のものというのが意外に今増えているんです。

規模は大きくないですし、みんな低層ですね。

超高層はいくらやっても意味がないということです。

そのために、アメリカでは、建築、スペースコレクション計画の理論上の問題と都市の構造上の問題、いろんな基準法、法規上の問題、そういうのが郊外型オフィスの出現によって今までと考え方を大分変えざるを得なくなってきているので、全面的に見直さないと無理になってきつつあると言う傾向があるみたいです。
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2010年08月11日

大小のディベロッパー

トランプは、「テレビシティ」、「アトランティス・シティの大カジノ」「タイムズスクエア付近の開発」と各種のプロジェクトを進めているとのことです。

このトランプに限らず、現在ニューヨークでは、大小のディベロッパーが、こうした投機(スペキュレーション)を中心にした発想で再開発を進めつつあるようです。

数多くの計画が示されていますカみな発想が似ていき、現在では、どこでもオフィスでそれなりのテナントを一定の条件で入れてくるということになってくると、その土地で最大のボリュームで何万平米という形で、これは自動的に計算ができ上がってきます。

そこの中に入る、最も効率のいいオフィスの中身の計画ということになってくると、これも大同小異そう変わらない。

同じ窓、シルエット、色、材料、その程度しか変化がない。

形はそれほど変えられない。

大きな地区では数社が競っていますが、みんなそれとどっこいどっこいの発想です。

その発想のときに何が起こるかと言いますと、デザイナー、スペースコレクションの建築家の変わったデザインを売り物にしないといけない。

デザイン競争が起こっているわけで、口の悪い連中はパッケージのデザインだと言っています。

これは、私が最初に定義した「スペースコレクションの建築家」の、中の内容を分析して、それを空間に翻訳して、それを形にしてということとは逆行しているように考えられ、私自身はこうした投機的な色合の強いディベロップには、参加しないことにしています。

アメリカの地方都市もだんだんそういう傾向になってきました。

ディズニーのイメージを変えたい。

極端に言うと、ディズニーというのは子供向けの場所なので、建築やハイブローな文化性を持った雑誌には載せてくれない。

低俗文化のイメージを壊したいというのが今の新しいディズニーの方針になっていて、東京のディズニーランドは昔のタイプだと、全く違うのを今から考えたいと。

そういう話をいろいろ聞いて、説得されてとうとう引き受ける形になってきつつあるんです。

そういうように一つの企業、一つのポリシーをスペースコレクション建築の形としてどこか打ち出したいという気持ちはアメリカの場合にはさまざま見られる。

とくにディズニーでもディベロッパーですから、ディベロッパー側がそういうことを非常に意図しているのがアメリカの状態だと思います。
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2010年08月10日

スペースコレクションとニューヨークの再開発

アメリカでは、ある地域を再開発する場合に、このカルフォルニア・プラザの場合のように、ディペロッパーが中心になる場合がままあるのですが、その一つの好例として、トランプという男があげられます。

ニューヨーク五番街で五三丁目か五四丁目ぐらいに自分の名前を付したトランプタワーを数年前につくり、有名になった人物です。

見かけはたいした建物ではないんですが、入り口周囲に立体的なショッピング・アーケードをつくり、全世界から高級ブティックを集めてきて、いかにもニューヨークのスノッブと言っていいような人たちの生活感覚を刺激するようなデザインをいろいろ取り入れた建物です。

その上にオフィスとコンドミニアム、すなわち分譲のアパートを入れた、無理を重ねて、リスキーだと言われながら、非常な成功をおさめたものです。

彼はディベロッパーとして、その当時30数歳だったと思います。

それで突然自分の名前をつけた建物で成功したんですが、親の遺産を若干もらって、それを資本に、ニューヨークの一番目抜きの土地ではあるんですが、その土地を買って、その上でインベスターを見つけてきて建てた。

つまり彼にとってはかなり背伸びをした計画だったのが、突然当たったため、今や時代の寵児というぐらいにアメリカでは見られています。

ただこうしたトランプのような方法は、アメリカでは歴史的に一般的なものであったということは言えます。

と言うのも、カルフォルニア・プラザの場合のような事業コンペも、スペースコレクションの建築家コンペも、ともに都市の再開発というものが歴史的にどういう意味合いを持ったかと言うことを考えてみればわかります。

アメリカの場合に、都市の中である地区が歴史的・経済的に地盤沈下をし、地価が相対的に下がってくる。

その地価が下がってきたものを、もう一度地上の活動を活発にすることによって、その地価全体を引き上げてやろう。

あるいは地区全体の評価を高める、という役割を再開発というのはこれまで担ってきていたんですね。

ですから、ディベロッパーの役割はほとんど価値のない土地をまず探して、それにアイデアをつぎ込んで、そして開発をやる。

その価値のなかったものに新しい付加価値を生み出す基準でディベロップメントをするわけです。

例えば、同じニューヨークのロックフェラーセンターは、1929年の大不況の前に計画が進んでいて、それを大不況があったために計画の全面見直しをやって、むしろ不況の最中に今のロックフェラーセンターを建てたわけですね。

それは非常に合理的な都市開発の一番いい例だと言われているんです。

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2010年08月09日

事業コンペ

ディベロッパーからの応募が20組なり30組に達した場合、それを10ぐらい、あるいは五つぐらいに絞り込むためのもので、一般には書類審査が行われます。

その後、数をしぼって指名し、一定の金額の設計料を渡して案を求める。

日本ではお金なしで案を求めるというケースもありますけれども、これは感心しません。

そういう格好になって事業コンペというのがなされます。

ですから事業コンペは、プレゼンテーションは50%のデザインということになると、かなり凝って派手にやらないといけない。

だけれども、同時にさまざまなファイナンスの条件。

つまり、それの中にはどれだけどういう種類のリテールをうちはこれだけ持って引っ張り込むことができる。

それは、市が意図している文化的な活動が中になされているものをどれだけサポートできるであろうとか、そういういろんな細かな内容まで、全部そこでレポートの中で一つの戦略として組み立てないといけません。

オフィスでも、貸しオフィスになりますから、そのテナントを探さなければならない。

それから、どういうホテルのチェーンとうちは組んでやろうということも入っています。

また、どういうスペースコレクション住宅専門の開発、専門ディベロッパーがありますから、そういうディベロッパーも入っていて、こういう種類のタイプのコンドミニアムを販売する能力はこういうふうにあるというようなことも入り、それを全部まとめて一組になるわけです。

初期の段階はかなり大ざっぱな資格審査で、あまり細かいことは出ませんが、最後の段階はかなりシリアス,にその内容を組み立てなければならなくなります。
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2010年08月08日

地元のスペースコレクションの建築家

市の方としては建築物にお金を別に使っているわけではなく、今後は美術館の理事会を市の方から依頼してつくり、そこが募金をして運営をするというものです。

スペースコレクション建築を担当した現代美術館は1986年末にオープンし、建物として私が外国でやってでき上がった最初のものになりました。

インドの砂岩を用い、ロサンゼルスの気候に合うようなさまざまなデザイン、現代美術とつながる新しいデザインという光の入れ方をさまざまに工夫をして、ここで組み立てたものです。

この実績のあと、ニューヨークから新しい美術館のコンペの招待が来ました。

幸いに最初の十人に選ばれて、その十人の中から五人だけが指名でコンペになりました。

地元のスペースコレクションの建築家と常に協力してもらったわけですけれども、一等に当選しました。

このような「事業コンペ」の場合、まず声を上げるのはディベロッパーです。

自分のところだけでは賄い切れない場合は、二社ぐらいで組むときもあり、おおよそ二〜三社で組む場合が多いようです。

アメリカの場合のこうしたコンペでは、設計能力が50%、ファイナンスの能力が25%、経験が二五%、こういう評価基準が割と事業コンペの中に最初からはっきり示されているのが日本の場合との大きな違いです。

まずディベロッパーが建設会社を探します。

建設会社のどこかと組み、その後にそのデザインをやるスペースコレクションの建築家を探す。

そのスペースコレクションの建築家もそのメンバーに入れます。

そのほかにおそらくディベロッパーはファイナンスのためのさまざまな段取りを背後で行います。

そのためインベスター(投資家)がそこに加わる。

つまり、基本的に四者が一つのチームをつくって、応募しますよという申請を出すんですね。

次に資格審査(クオリフィケーション)を行います。

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2010年08月07日

事業コンペ

ところが、最近違うタイプのコンペというのがだんだんできてきたわけです。

現在では日本でも「事業コンペ」と言われるようになったものですが、スペースコレクションの建築家が主体で招待されたのではなくて、ディベロッパーを中心にしたコンソーシアムを招待して、そこに案を提出させる、と言うコンペです。

アメリカの例になりますが、カリフォルニア・プラザと名前がつけられている、ロサンゼルスの再開発コンペがあります。

その中の現代美術館の建築をとあり人が担当しています。

ここはロサンゼルスのダウンタウンで、超高層ビルが林立している場所と、それに隣接してミュージックセンターとシティーホールがある、そのちょうど中間の場所にあたります。

いわばロサンゼルスの一等地ですが、そこの20エーカーを土地として渡す。

これを開発するため、日本で言う第三セクター的な開発公社をロサンゼルス市がつくり、そこでプランニングをし、企画をつくるわけです。

それは実際には超高層ビルが三棟、1000室ぐらいのホテル、600戸ぐらいのコンドミニアム、それに5000台のパーキングというプログラムだったんですけれども、それをここの中に入れる、そういうスケールの開発を市は企画し、それに応募する体制を組んで来なさいという形でアナウンスがあるわけです。

そのときの条件にプロジェクト全体の費用、当時で1.2ビリオンダラーのうちの1.5%を文化施設として市に寄附してくれ、そういう条件があったわけです。

美術館は、そういう大きい開発計画の中の、1.5%を美術に使う、文化に使う、その枠をまとめて建物にして、ロサンゼルス市に寄附したものです。
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